昭和四十七年二月九日 朝の御理解
X御理解第九十七節「世の人が神のことをあれこれと口端にかけるのも神の比礼じゃ。人の口には戸がたてられぬ。
先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても腹を立てな。神が顔を洗うてやる」
信心をさせて頂いておりましても、様々なことがございます。一生懸命になって信心の稽古をさせて頂いておりますと、それが信心のない人達には、おかしく見えたり、それが却って悪口の材料になったりするようなことすらがあります。そういう時に「腹を立てな」
と仰っておられます。だから、その腹を立ててはいけんのです。ですから、「それも神の比礼じゃ」と仰るのですから、やはり神様のご比礼を思うたら、有難くお礼が申し上げられるわけでございます。
「それも神の比礼じゃ」と。悪口を言うのも、信心さして頂いとるもの、けど、腹が立つものですよね。他のことならよいけれども、
金光様の悪口を言われると、それが無性に腹が立つ。やっぱり私どもの時代にも、そういう時代があったです。そして赤面弁慶になって、それに対抗しとる時代もございましたが、段々おかげを頂いて、
神様のご比礼であることが分かって来た。ですから「神が顔を洗うてやる」と仰るのですから、神様が顔を立てて下さる。同時にそうなってまいりますと、顔に関わることがなくなってくるわけです。
四五日前だったでしょうか、教務所から電話がかかってきました。
今度学院にまいる人達の内申書とか、身上書を出しておりましたのが、不備な点があるとこういうわけです。まあ今まで何年も行っとりますから、今まで通りに致しておりましたけれども、今度教務所の所長が代わられましての、以下次長以下皆代わられました。ですから、行き方、方針が代わって変わられたのでもありましょう。
例えば内申書と、他の申請するものと字が違う。履歴書は皆自分で書きます。けど他のものは皆ここでは久保山茂さんが承っておられますから、毎年書いて出しておられます。
そしてのっけから電話がかかってきて、言われることが、「字が違っておりますよ。書き直して下さい」と言われればよいのですが、
「あんたんところは皆身体障害者か」と言われる。一番初めから、いえもっとひどい言葉だった。身体障害者という意味なのです。 「みんな片輪か」と言われるのが一番初めだったそうです。「なしてですか」と言うたら、「本人が一つも書いてないじゃないか」と言うことだったそうです。
まあそれから何度もかかってまいります度に、まあどうしたならば合楽を目の敵のように、そのような因縁つけるようなことを言わにゃならんだろうねというごと、何時もかかってくるわけですね。しかし皆向こうが言う通りにしたらどう、こちらがどうこう、向こうが言う通りにさせてもらったらよいじゃないかと言うて、言うわけでございますけど。
私はそのことに対してお礼を申さして頂いた。これは合楽だからこそ、そういうふうに目を付けられておるのである。これはまだ合楽はどんどんおかげ頂きますよと言うて、言うなら今日の御理解から言うと、それも神の比礼だった。それを例えば、信心を離れて聞きますと、腹の立つことばっかり。けれども、信心でそれを頂きますと、いわゆるお礼を申し上げることばっかり。神の比礼であると分かっておるわけであります。
してみると、神の比礼と分かってお礼を申し上げることになると、
顔に関わることになるでしょう。顔は一つも汚れません。いやむしろ神様にお礼を申し上げておる。その場に居合わせたり、無関係の方達、高橋さんとか久保山さん、西岡さんあたり、どうしてそげんいろんなこと言わんならんでしょうか。例えば言うことなんです。しかし、それが神の比礼です。神様の生き生きとした働きの表れだということです。
大変な財産家のご隠居さんに、「あなたのことを○○家はとてもケチんぼだと人が言いよります」と人が言いました。そしたらそのご隠居さんが大変喜ばれた。これはもう一時は家の財産も揺るがないというわけです。確かにそうなのです、人から悪口される時は繁盛している時です。
そげなこと言う人達のと言うことも何もいらん。意味は少し違いましょうけれども、教務所と合楽の関係の場合なんかでも、まあそのことだけではありません。もう一事が万事にです、それでそういうことに直面する時に、これはまだ合楽は伸びるぞ、大きくなれるぞ、おかげを頂かれるぞ。
それとても神の比礼じゃと分からせて頂くところから、腹を立てんで済む。腹を立てなと仰る。腹を立てるどころか、お礼を申し上げるから、「神が顔を洗うてやる」と仰る。それが言わば合楽じゃなあと言われるような、これは良い意味でです。さすがに合楽だなあと言われるようなおかげを頂くのも合楽である。神様が顔を洗うて下さる、まあ洗うて下さると言うよりも、顔を立てて下さる。だからそこのところを皆さん腹を立てたらおかげにならんのです。
昨日、ここ十日ばかり、吉井の手前、松尾というところがある。そこから毎日午後から
参拝される方があります。息子さんが大学入試で、どうでも一つ、今度は試験にパスのおかげを頂きたい。合格のおかげを頂きたいという願いで、一生懸命参ってきます。
昨日も参ってみえましてから、昨日は丁度受験番号ですか、それが通知があって分かったからというて、そのことのお届けがございましたから、それをお礼申させて頂きよりましたら、ちょっと一段高いところ、まあ言うなら立ちハシゴというのですか、ちょっと高いハシゴ。普通では上がられない、けれどハシゴかけると上がって昇れるという情景を頂いてね、「まあ一生懸命参っておいでよ」と。
「どんな都合があっても欠かすことをしなさんなよ」と。おかげを頂いて、これが一つも欠けるとね、登りにくくなる。ハシゴが大体上がられんとじゃもん。けども信心させて頂くことによって、ハシゴかけて頂くから、おかげでの上がられるのだ。けれどもこれを欠いたら上がられんよというわけです。
しかしこれは、信心の初手、信心の初心の人に対する御理解なのです。ただ、御理解が分からなければどうのということではない。ただお参りしてくれば上に上がられるとこういうわけである。けれどもこれはいよいよ信心が巧者になるといいますかね、してもこれは同じようなことが言えると思います。
例えばこうと私どもが決めた時に、決めさして頂いたこと、若先生が朝の御祈念にどんなに具合が悪い、それこそ這いも立ちもできんごとあったっちゃ、それこそゴソゴソ這っても御祈念だけは勤めますね。私は信心にはそういうものがどうでも必要ですね。毅然としたものが必要です。
昨日は福岡の桜井先生がお礼に出てみえられた。高いところに登られる高層建築の上において、何かなさる仕事を請負うてしておられる。もう丁度五年前の昨日、高場が壊れておりましてね、下へ真逆様に落ちられた。下は地下の方へつながるコンクリートの深いところへ落ちられた。ところが途中で引っ掛かり、何かちょっと引っ掛かるものがあったり、下の方にはそれを受けておるような、怪我せんで済むようなね、その中に落ち込んだ。ですからおかげでかすり傷もせずに、もうそれこそ、奇跡的な助かりをなさったわけです。
もうそのことを思うただけで身の震うごとある。
昨日という日がその日の再び生涯の生まれ変わらせて頂いた日として、誕生の日として、毎年お礼に参拝して来る日なんです。何時も高橋さんところに注文されて、大きな寿司桶に一杯寿司と、まあ御神酒やら色々他に取り揃えてお供えなさって、お礼を申し上げて下さいというわけです。昨日もその日でした。
ところが昨日は高橋さんところがお休みだったのですから、久留米の方の支店の方に頼まれて、久留米の方から持ってきてあります。
それで四時の御祈念を終わらせて頂いて、お風呂を頂いて御夕食、私と久富先生と若先生と桜井先生と四人で、まあお祝いの御寿司頂いて、一献傾けさせて頂いた。
私はそれを頂きます前に、久富先生と一緒に風呂に入っとりましたら、お風呂の中で神
様から色々お知らせ頂く。「今日の御寿司のなかに柱がある。貝柱がある。あれは食べたら当たるから食べるな」
とお知らせ頂いたから、私はすぐ風呂から上がらせて頂いて、その大きな寿司桶が食堂にございますから、見に行きましたらないですもん。
あいた、これは私の頂き違いじゃったろうか思うて、私は柱が薄く切って、海藻か何かで鉢巻きさせてありますよ。すぐ目立つはずなのに、寿司桶一杯ありますけど、柱らしいものは一つもないわけです。今上からこうかけるものがあるでしょう、ビニールの薄いもの、あれがかけてあるから分からなかったのかも知れません。けど、
それから茶の間に持ってきてから、「神様からこげなお知らせ頂いたけど、柱はなかったのう」と言うて、こうして見よりましたら、下の方にいずまるようにしてから、しかも目立たない白ですからね、
四切れ入っておるのですよ。あああることはあった。これだけ沢山の中に四切れだけ入っておるから、それだけ取らせて頂いて、茶碗蒸しを作っておりましたから、茶碗蒸しの中に入れさせて頂いたら良い。で、はいでから茶碗蒸しのネタにさせて頂いた。茶碗蒸しも晴れたわけですけど、まあそういうことがございましたがね。
段々信心の稽古さして頂いて、今言う、本当にこどもの学校入学ということのために、母親が一生懸命に参ってくる。お参りをしてくる間に、毎日御理解を必ず頂いて帰られます。来て、それを頂いて帰っておられますが、もう十日くらい前ですが、昨日は初めてそういう御理解を頂いた。信心のおかげを頂くコツアイというものはね、ここに一心を貫かねばいけないという御理解である。
段々信心が出来て、それこそ道の教師までお取り立て頂いた桜井先生が、五年前にああいう命拾いさせて頂いたということが、例えばそういう奇跡的な助かりをするということが、随分信心がなかってもありますよね。ああ運が良かったで済ます人もありますよ。
けど桜井先生の場合は、年年歳歳、今日は私が新たな誕生日として、お礼参拝が出来ておられるということ。信心も段々おかげを頂いて参りますと、本当におかげおかげだけとしてわからせて頂くだけでなくて、そのおかげがそこに形を表してでも、おかげを頂かねばおられないことになってくる。信心がそのように成長してくる。 そして今度は私の場合である。神様から直接色々お知らせ頂いて、
例えば毒なものがある時は、神様から「食べるな」と。大体私は貝類が好きで、恐らく一番口に頂いただろうと思いますね。もしそれを頂いてなかったら、それは果たして、それが毒であるか毒でないか、障るかさわらないかわからないのです。けれども神様がそう仰るからそうして頂いたまでです。
はあひょっとすると、茶碗蒸しのネタがないから、柱を四人ですから、四切れ入っております。四切れあります。だからそのためであったかもしれない。けれども頂いたことだけはその頂いたことを素直にそうさせて頂いたというだけです。
例えば三福さんところの貝柱の寿司、それが例えばたくさん作られたでありましょう、
他のお客さんのために。誰それが障ってくるようなことが恐らくなかろうと思うけれども、神様から頂いたことだから、それをただハイと頂いただけのこと。信心の一つの過程と申しましょうか、初めの間はやはり、ああして頂きたい、こうありたいと思うてお参りする。
そのお参りでも、一つの貫くといったようなものが、訳はわかってもわからんでも、それを貫かせて頂くことが大事なことが、今日の御理解を聞かせて頂いてわかりました。信心がわからせて頂いたら、私ども命をこうしてこうやって頂いておるということ。誰でも誕生なしにこのようにこの世にあるわけではないのですから。
例えばあの時に助けて頂いたから有難いのではない、もう今日命があることがすでに有難いのである。この世に生を受けておったということ。そして何十年間こうして銘々五十歳になるなら、五十年間のお生かしのおかげ頂いておることがです、お礼申し上げさせてもらわねばおられん。そして誕生日には、まあ言うならば死んどれば年忌、生きとればおかげで誕生である。そういう一年一年の節々くらいにはです、神様にそれこそ寿司桶一桶くらいじゃない、御神酒の一杯くらいのことじゃない、御初穂の少々くらいのことではない、それをさせて頂いて、お礼を申し上げて下さいと、信心が育って行かねばいけないと。
大きな信心をせよ、大きな信心には行き詰まりがない。私はお雄道の信心くらい大きな信心はないと思う。私は私のこの紋付の紋所というのは大体梅鉢ですから、この梅の外に輪があるわけです。輪があるのが私の方の紋です。神様からこの輪を取れと言われて以来、私の着けさせて頂く紋付は、輪のない梅の紋になっております。いわゆる天満宮さんの紋と同じ紋なのです。
私はこのことをです。言うならばこのことを我情我欲と思うとります。また事実そうである。我情我欲という輪を取る。ですからこの梅は限りなく大きくなれと。縁がない、輪がない、囲がない。我情がない、我欲がない。金光様の信心は有難い。
そんならです、まあ私は今日まではそう頂いとりましたが、今日これはお知らせ頂いたことなのでありますが、ああしてなはらん、こうしてはならん。あれを食べてはならん、これを飲んではならんといったようなことのない程しに、大きな信心ですね金光様の信心は。ですから、私どもが大きなおかげを頂かして頂くためには、どうでもそこのところの信心がわからにゃいかん。
例えば不浄と思っておったことでも、わが心で犯すことにもなれば、払うことにもなる。払うことの出来るだけの信心を頂けばおかげなのである。その辺は大変有難い、そして難しいことである。ですからそういう一つの行き方を、私どもが日々稽古をさせて頂くということです。
先日からもお話をしましたように、久留米に出ました。久留米へ家内と愛子連れまして、琴の招待券を、演奏会の招待を頂いとりましたからまいりました。大変おかげを頂いて参りました。
出掛けよう、出ろうと思いましたら、『キックボクシング』と頂いた。私はああいうことはあまり好きでないですから、余りわからないですけど、ただ知っておることは、キックボクシングということは、例えば拳闘とか柔道とかレスリングとかなんか、いろんなものが混ざっておる。どげんしたっちゃよかというわけです。ルールがないわけではないでしょうが、いわゆるルールのない勝負なのです。
拳闘なら拳闘、柔道なら柔道、こうしたらいけん。相撲なんかは、土俵なら土俵がある。他のことでもそうでしょうが、土俵なら土俵の上でも、足がちょっとでも出たら負けるルールもある。金光様の信心はね、世界中が土俵というてよいのです。どうしちゃならんこうしちゃならんということは決してない。ただ問題は勝ちさえすれば良いのである。というのはどういうことかと言うと、問題はです、私どもがそこに有難いという答えさえ出れば良いのです。
その有難いという答がです、信心が薄い時には罪悪感とか、自分の心の中に呵責の苦しみというのがあるけれども、信心、例えそれが同じであっても、わが心で払うだけの力があれば、払うだけの力があれば、それは罪悪感でも何でも、教組はそこんところを仰っておられます。わが心で罪汚れを、わが心で払うこともあれば、犯すこともある。同じことが、とても信心の稽古のね、妙味、素晴らしさはこの辺にあるのです。金光様の信心、この一つ頂いても有難いです。
「食物は人の命のために天地の神が作り与えたもうものぞ」と。何を食うにも有難く頂く心を忘れなよ」「大酒大食は絶食の元になるぞ」というようなみ教えでもそうです。金光様の信心すれば酒を飲んではいけんぞ、牛肉なんか食べちゃでけんぞということは決してないのです。天地の親神様が、人の命のために作り与え給うものです。何を頂いて良いのです。けれども大酒大食してはいけんぞというのです。今日は私は何でも良い、けど飲み過ぎたり食べ過ぎてはいけん。何を食べても良い、何を飲んでも良い。決してそれは罪でもなければ、御無礼にもならん。
これが○○宗、○○教であったらです、それは教えを犯すことになる。もうその人は精進しておることにならん。食べたり飲んだりということで、金光様の御信心はそれだけでも、いかに金光様の御信心は偉大な信心であることが分かる。けれども何を飲んでも、何を食うても良いけれど、有難く頂く心を忘れなよ。問題はだから、有難く頂けるところだけ、信心を進めなけりゃいけん。これは食物のことだけではない、すべてのことがそうなのです。
ことの演奏会がもう夕方になった。高橋さんにそのことを申しましたから、そんならビフテキの美味しいところがあるから、そこに行きましょうと。そこでご馳走になった。もう本当に私はびっくりした。二千五百円もするビフテキを初めて食べました。もう驚いた。けども実際は、高橋さんが会計を承っておられたから、本当に勿体ないことでございましたけれども、それこそ有難く頂く心を忘れなよと。
それから向かえにある築後という民芸品の店へ行きました。そこへ寄らせて頂いて、一
二点買物させて頂きました。それからちょいと一つ、奥様が同道ですから、奥さん孝行に今日は映画を見ろうと、もう何十年間振りに映画を見せてもろうた。松竹とか何とかいうところで見せて頂いたが、まるきり私どもだけのごとあった。あげなことでは映画も立つまいと思いましたが、本当に貸切で観せて頂いたようなことでありました。
それから私はよそへ出てから絶対に土産は買わないのですが、奥さんが一緒ですから、何か私は焼饅頭を買おうと、今頃焼饅頭なんかありませんよ。そこまであるところまで行こうと。もう九時頃ですからもうあるはずがありませんが、どこもありませんでした。それから私があっちさへ行かんの、こっちさへ行かんのと言うて、妙なところに行きました。そしたら、あそこは久留米の有楽町というところだそうです。そこを歩かせて頂きよったら、そこに焼饅頭を焼きよるところがあるじゃありませんか。それから値段を聞いたら二十円と言うから、「五百円かと下さい」と言うたら、丁度二十五焼けとった。
それから翌日、私は高橋さんに言うのです。昨日どうして私があっちこっち、ろくそうな映画観たり、饅頭買うくらい当たり前ですが、私にしてはちょいと乱れたような感じです。けれどもね、私が市民会館を出ろうと思うて、お礼を申さしてもろうたけれども、神様からキックボクシングと頂いたけん、今日は突いても蹴ってもよかつばいなと頂いたから、私があらゆることをそれだけの時間、それこそ饅頭買いにも行った。映画館に行った。有楽町の散歩もさして頂いた。言うなら好きな買物もさして頂いた。言うならば私としては乱調、乱調子です。無茶苦茶です。
けれども、親先生と一緒に散歩させて頂いて、そういうことがありましたけれども、神様の間違いなさにただ恐れ入ってしまうと言うのですよ。ああこれは間違うでござるとじゃない、御神意だろうとは思うておったけれども、成程キックボクシングで行ったわけです。ですから何をしても良いでしょうが。饅頭買いに行ってはならん、どうしてはならんというのではない。演奏会に行っちゃならん、映画に行ったらいかんと言うのではない。けれどもそこはリズムというのがある。そのいつもリズムに乗っとらにゃいかん。そこまでお互い信心して行かにゃいかんのです。そうすれば金光様の偉大とか、大きいということは、そこまで行かなければ金光様はいかに大きいとか偉大とかは言えんのである。
そこでです、お互いがね、本気でそういう信心を、いわゆる真の信心をめざさして頂いて、私は今日は椛目の宮崎さんのことを聞いて頂こうと思ったけれども、時間がないですから、例えば一番初めは教会の傍におってから、どんどん皆が参っておるが、本当に暇のある人ばっかり了見は及ばんというくらいのことであった。お父さんが参ると何でそげん何時までも拝まにゃならんのというごとあったが、それ以来信心が少しづつ分かって来たのか、今度の寒修行を親子夫婦でお参りさせて頂いてから、どうも有難いところが分かられた。これは人生の重大事だと悟られた。
私が言うのはそこからです。金光様の信心の偉大さ大きさを身に付けてくる、分かってくるという信心を、その間に私どもが神のことをとやこう口にかける、そういう信心させていよいよいろんなことを言われたり、神の顔にかかわるようなことを言われて、神様の
悪口を言われたりするようなことがあるけれども、それとも神の比礼だと分かるところの信心にならせて頂く時に、腹を立てんで済むところのおかげを受けられる。
そして私が桜井先生のそのお供えの寿司を頂きながら、一杯頂きながら、神様から「あれは食べなこれは食べな」と言われたら、それを私が頂かずにおりますような、言うなら、何時どこにおっても、どんな場合であっても、神様がいつも付き切りに付いて、私に言わば右に行け左に行けと教えて下さる道が行けるようなおかげを頂ける時にです、お道の信心はいよいよ素晴らしい偉大なものになってくるのである。腹を立てようにも立てようがない。むしろお礼を申し上げるところの信心なのです。
そこで一番、初心の言うならば、来た、ようやく十日お参りしたと言う、しかも息子の受験のために、ただご利益を頂きたいばっかりにお参りしてきよる。婦人会に対して頂いたその御理解をもう一ぺん私どもが段々巧者になってきておる私どもが、その御理解をもう一ぺん頂き直さしてもろうて、そういう偉大な、大きなおかげの頂けれるその道すがらとて同じこと。
昨日私が正義先生のことを申しましたように、寒修行に何日間御無礼さして頂いたら、もうこれだけ空間が出来たと言う意味のことを言うておりますように、その空間を作らんで済む程しに、信心がいよいよ有難いものになってこなければ、いかに金光様の信心を、いかに偉大だというても、大きいと言うてもです、普遍性に富んだ教えであっても、それを身に付けるということは、そういう信心修行がなされてからのことである。
今日は大変広い範囲で聞いて頂いたわけです。いかに大きいからというても、例えば有難いという答え、例えば食物の例で言いますならば、有難く頂く心もないのに頂いちゃ出来んです。普通で言うならこれは悪いことかもしれん、けれどもそれは私から見ると、有難く見えるようになったら、そのことはもう悪いことではないということ。それを私が久留米から回ったことを話しましたのを聞いて頂いたわけですね。
そういう信心を身に付けていこうとするのですから、ただお座成りの信心でそういうものが身に付くはずがない。かと言うて本気でおかげを頂こうという気になったら、誰でも頂ける信心。問題は本気になって信心頂こうとするか、しないかということになるのでございます。腹を立てる段じゃない、立てんで済む、いや立てんで済むだけじゃない、お礼を申し上げるような日常生活が出来れるおかげが頂きたいですね。どうぞ。